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長嶋茂雄

 投稿者:Monogatari Rekishi  投稿日:2008年12月 6日(土)11時33分51秒
  通報 返信・引用 編集済
  ○長嶋茂雄(ながしましげお、Nagashima Shigeo、1936〜)―Y!BlogWiki
 梶原一騎(1936〜1987)は「長嶋のいないジャイアンツでは物語ができない」と言ったらしい(河崎実『「巨人の星」の謎』)。
 長嶋茂雄は元巨人軍3塁手。現役時代、あの王貞治は3番打者で、長嶋が4番だった。本塁打は444本。王貞治の868号の半分以上である。

 1957年秋のドラフト〜年末に巨人入団決定。1958年春から現役開始。74年のシーズンを最後に引退。

Wikipedia 1957年
└→12月7日、長嶋茂雄の巨人入団決定。

Wikipedia 1958年
└→4月4日、長嶋茂雄4打席4三振。8月25日、チキンラーメン登場。8月31日、王貞治巨人入団決定、10月4日契約(朝日新聞社『週刊平和』No.02)。10月21日、西鉄日本一(Wiki)、川上哲治引退。

Y!Blog 星飛雄馬誕生、1950年代1958年(1)――星飛雄馬の少年時代

Yahoo!Japan
www.yomiuri.co.jp/feature/mister/fe_mi_06062201.htm

このHPでは記者会見は1957年12月らしい。

KYOJIN no HOSHI 特定小委員会リポート

これによると1957年秋になる。

 入団して最初にキャッチボールをした相手はジャイアント馬場だったらしい。入団の記者会見で学生服の上に背番号3のユニフォームを贈呈されたのは1957年の終わりだったらしいが、『巨人の星』の第1話(原作で無題、アニメ「めざせ栄光の星」)では1958年春になっている。ここで星飛雄馬(当時のイメーヂで10歳くらい、青雲入学時の設定で8歳、プロ編の設定で7歳)が長嶋に魔送球を投げつけた。長嶋は直感でこれを魔送球と見抜き、避ける必要はないと判断。
 開幕の際、国鉄スワローズの金田正一と対戦し、4打席4三振。その後、甲子園球場での試合で、当時4歳ほどの藤村甲子園(のちに阪神、甲子園整備員)から「お兄ちゃん(長嶋茂雄)をきりきりまいさせる」と予告された(『男どアホウ甲子園』)。

 1965年、中日の柿本(Wiki)の投げたボールをめぐって乱闘騒ぎ。『侍ジャイアンツ』(Wiki)アニメ版の第42話「爆発長嶋流喧嘩野球」で長嶋が73年の日本シリーズで東京に向かう新幹線の中、番場蛮に語った。

 1967年秋、星飛雄馬が入団したとき、飛雄馬から危険球を食らう。王とともに飛雄馬と対戦し、三振するが、次の対戦で報復を果たす。

 1968年の台湾キャンプでは、紅白戦で星飛雄馬から唯一の安打を放ち、飛雄馬は極端に悔しがった。同年9月18日、対阪神戦で王が触身球に倒れたあと、長嶋は本塁打を放って報復。このときのことも「長嶋流喧嘩野球」として長嶋が番場蛮に語って聴かせていた。

 69年の日本シリーズでは打撃で巨人の日本一に貢献し、星飛雄馬とともに、胴上げされた(「みんなが青春を!」)。金田正一引退記者会見では、王とともに、金田正一との初対戦が一番印象的だと語った。

 70年の宮崎キャンプ、長嶋は消える魔球の打倒策3つ(体重地固め、3塁走者協力、帽子落とし)に気づいていたらしいが、開幕戦の対中日戦では伴の体重地固めに気づくのが遅れた。その代わり、投飛となったボールの気配を「野獣の勘」で察知、星に教えた。
 花形が大リーグボール3号をノックアウト打法で打ったとき、原作で長嶋はグラブをはじかれたが、飛雄馬の上に落ちたときはグラブをはめていた。アニメではグラブはずっとはめたまま。最後のの対中日戦で星は「エラーしてもらってはこまるんだ」、「長嶋さんにもつたえておいてください」とチームに釘を刺し、長嶋はゴロの捕球でも緊張していた。

 70年秋、川上が長嶋に「サムライが欲しい」と述べた。長嶋は川上、八幡とともに、四国の土佐嵐高校を視察、番場蛮と出会う。71年の契約更改の際、番場は長嶋から「冬眠しない野獣」の話を聴いて燃えた。72年あたりからコーチ兼任。

この時期、巨人軍は川上監督指揮下だったが、紅白戦で両軍の監督が長嶋と王になり、「長嶋監督」(漫画では「長島監督」という表記)、「王監督」ということばがすでに出ていた。今、想うと予言的な場面である。
└→II

 73年、長嶋は通産2000試合出場のとき、自ら本塁打を放ち、番場を感動させた。優勝を掛けた巨人×阪神最終戦、長嶋は缺場したが、番場が横分身魔球をウルフに打たれたとき、電話で川上監督を通じて番場に助言。縱分身を生み出す力になり、これで巨人はセ・リーグ優勝。

 『ドカベン』の中学編で長嶋茂雄をモデルにしたような投手・長島が登場する。また、練習中、岩鬼がノックを大河内が捕ったとき、岩鬼は「巨人の長嶋だっていまの猛ゴロはとれないぞ。なァ、やァまだ」と言い、山田は「そりゃそうです、巨人なら今の打球はキャッチャーの森さんがとるでしょうね」と言った。
 この時期、岩鬼と夏子は後楽園球場で巨人×阪神戦を観戦。試合後、現役時代の長嶋、王、堀内の目の前で岩鬼が的当てに参加、的のど真ん中にボールを当てて、そのボールは的を突き抜けた。

Wikipedia 1974年
└→10月12日、中日セV。10月14日、長嶋茂雄が引退。この日、国分寺球場では長島太郎(この年、東京メッツにテスト入団)が初HPを放ち、現役引退を表明。11月21日、川上監督が勇退し、後任は長嶋茂雄。

 74年は現役最終年。この年、長島太郎という選手が「4度目の正直」で念願の東京メッツへのテスト入団を果たし、1年で引退。阪神に入団した藤村甲子園(当時20歳)は剛速球投手だったが、長嶋茂雄は直感で藤村の変化球投手としての隠れた才能を見抜き、カーブを打つ練習を続けた。藤村との対戦で長嶋はストレートを予測し、そのとおり、ストレートが来たが、バットが折れて、三振。

 原辰徳は長嶋の現役1年目であった1958年に生まれ、長嶋が引退した1974年に原辰徳が高校1年、この1974年という年に松井秀喜が誕生した。

Wikipedia 1975年1975年の日本シリーズ

 本物の長嶋茂雄は75年に巨人の監督になるが、最下位の屈辱を味わう。広島×阪急の日本シリーズの最終日、伴宙太と再会、星飛雄馬の打撃練習と右投げを見る。

 76年正月、長嶋は花形家を訪れ、花形満、星明子、星一徹に飛雄馬獲得の意志を告げた。その年の宮崎キャンプで長嶋監督は飛雄馬をテスト生として参加させ、背番号3を与えた。星のスクリュー・スピン・スライディングは阪神の掛布によって破られる。球宴で長嶋は古葉監督に星を外野で起用するよう頼む。星は外野から右投げで田淵にバックホームし、観客を驚かす。一徹は「長嶋が見せた衣の下の鎧」と形容。星は右投手として復帰し、巨人のセ・リーグ優勝に貢献。長嶋は星に制球力改善を命じる。

 77年、星は速球と普通の変化球で通し、巨人の2度目のセ・リーグ優勝に貢献。

 78年正月、与那嶺要がハワイで星と遭遇、長嶋に報告。長嶋は宮崎キャンプで蜃気楼の魔球を目の当たりにし、のちにマスコミとの親善試合で暴露した。
 川上の「哲のカーテン」と若干異なり、長嶋は適度にマスコミを利用し、特種を提供していた。

 蜃気楼はヤクルトの花形によって打たれるが、長嶋は星のヤクルト以外のライバル球団との試合に引き続き登板するよう命じた。しかし、それはヤクルトの順位を上げる結果となった。78年はヤクルトが優勝。

 79年、江川卓の入団後、長嶋茂雄は星飛雄馬に「来季は現役として契約できまいが、コーチとして球団に残って欲しい」と要請をした。星は二軍コーチとなって水木炎を鍛えた。
 このコーチ就任要請は、当時から10年前に当たる69年初めに長嶋の前任者・川上哲治が飛雄馬の父・星一徹に二軍コーチ就任を要請したことの繰り返しに当たり、川上の要請は一徹によって拒否されたが、一徹も伴とともに巨人OBに戻って飛雄馬の魔球開發に協力したあと、飛雄馬は古巣の期待に応える結果となった。

 この翌年、80年を最後に長嶋監督は勇退し、81年から飛雄馬の左腕現役時代のピッチングコーチだった藤田元司が監督を担当することになる。王貞治も引退した。
└→III

 93年から2001年まで第2期監督を勤めた。2度目の監督に就任したとき、「うちにはサムライが必要だ」と述べたらしい。これは『侍ジャイアンツ』で描かれた1970年の日本シリーズで川上哲治が長嶋茂雄に言ったセリフと同じである。

 94年秋のドラフトでは、ほとんどの球団が明訓の山田太郎を1位指名する中、巨人の長嶋とダイエーホークスの王の2名だけは明訓高校の岩鬼を指名。岩鬼はホークスに入団し、長嶋は同じ明訓の微笑三太郎を獲得。岩鬼は長嶋に「日本シリーズで会いましょう」という傳言を残した。

 95年のオールスターではダイエーの岩鬼がセ・リーグのベンチを訪れ、長嶋が出迎えた。岩鬼が夢見た日本シリーズ対決は、そのあと、5年たって実現する。

 2000年、日本シリーズは長嶋ジャイアンツと王ダイエーのON対決。『少年チャンピオン』の表紙も水島新司の作画による王と長嶋の似顔絵、そして、微笑と岩鬼のイラストであった。

 2002年のシーズンから監督を原辰徳に譲った。

 その後、長嶋は讀賣グループ独特の人事で「巨人軍終身名誉監督」という、凡人にはよくわからない立場になった。

 2004年のアテネ五輪では病気で現地入りを断念。中畑清ヘッドコートが現場監督となり、銅メダルを獲得した。

 2009年のWBC(Wiki)に臨む日本チームの監督は原辰徳に決定し、チーム名は「サムライジャパン」となり、まさに『侍ジャイアンツ』の世界。川上と長嶋が求めたサムライの野球チームを目指すのであろう。
 
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